こうなるはずだったなんて張本人として言い訳ヅラして、
鬱状態と引きこもりを悪化させ、実家で療養の身となった話しかすることがない。
現状として言えることなんて、私は最早元気ですとかそんなことしかない気がします。
ここ数日、大学があり何やかや言いつつも暖かくて好きだとハッキリと言える1年半を過ごした岡山に戻っておりまして、更に、最高に幸福しかない数日を送らせて頂きました。
もう大丈夫だなんて言いたいのです。
さて、半年間の療養の上で、心掛けたいことを2つ決めました。
一つ目、体重を増減させないこと。
そして二つ目、風邪を引かないようにすること。
もうこれで十分です。あとは、実家ですから、いやでもどうにでもなります。
こうなるはずだったんだと、甘えだと思われるでしょうか、こういう時間を認めてしまうのは狡いのでしょうか。それでも、こうなるべきだったという感じがします。
あまり言葉が出てこないんだけど。
きっと、もう生きていきたいのです。まだ、まだ、生きていたいのです。それなら、きっと時間が必要で、私は恵まれた。
期待は、裏切りたくないのです。答えたい。まだまだ、諦められたくない。
ラストチャンスだ。
まだ、わたしは19で、この半年間で20になり、成人式を終える。
20歳になんてなれないと思ってたよ。おかしいよね。
わたしは、なりたい自分があるんだ。
居たい場所があるんだ、待っていてくれる人がいてくれるんだ。
幸せに、まだまだ、生きていたいんだったら、
死なないし、殺しもしない。
時間を。
最善に納得したい
いい加減確認しなくとも把握済みな逃げ照ちゃんボーイズ&ガールズの皆さんこんばんは~~~~~~~ 実家だよ~~~~~~~~
実家での暮らしは思っていた以上に””療養””向きであったと言えるでしょう。パチパチ。
一人暮らしで引きこもりをフツフツとコソコソ培養していた頃、何もしていないという事実だけを確認し続けるような時間の活用を行っていた次第なのですが、では現在のわたしはと言いますと、6時に起きてカーテンを開けて、朝昼晩のご飯を食べて、小麦粉を焼いたり魚を焼いたり、そして犬と散歩をしてみたりなどしているわけです...。
""療養""の為にここに居るという観点を、手放してはならない。
それは、時間の為にそしてそれ以上に何よりわたしを庇護する為で、
普通にね、ああ~私どうしてこんなに穏やかな生活をしているんだろう、何をしているんだ...って、止まった瞬間瞬間にサッと思考にノイズが入るように、それはふとやってくるんです。さて、これはノイズなのか、それとも普段の私がノイズだらけになっているのかな?
そんなことは今は良いのです。
ここまで来て、これ以上落ち込んだって、それこそ本当に””仕方ない””ようになってしまう。能天気で、明るくいなければならない。考えろ、それだけに努めろ、と。
まず、第一に。
わたしは「なぜここにいる?」→簡単です、心身を一旦鬱の底から引き上げられるところまで引き上げてしまう為です。
それによって、今後をスマートにするんだ。人間、わざわざ苦しむ必要なんてない、明るさが一番。
→つまり、ここにいることは、必然だったのだ。いつか必要となることだったのだ。
→クリア、考えるなってことです。
次に、
なんで「楽しそうに、楽しげなことだけしているのか?」→2点ほどあげます。
1、息をしなければ死ぬからじゃボケ 引きこもる、鬱々とする、それら習慣を忘れ去るくらいの衝撃が、今後も生きていくことを選ぶわたしには必要だったのだ。
2、半年後のことを考えよう。大学生活は、通常モードより幾分厳つくハードなものになるはずだろう。今は、""高い""休暇だと、割り切ってしまえばいいのだ。私が嗚呼頑張っているな...と感じている他者其々と、それぞれにして同じになれる下積み状態なのだ。しんどさなんて、被るわけないじゃないか、そうでしょう。
結局のところ、わたしはここに穏やかに生きることを選び取った自分を、いや最早過去の自己すべてを、認めるしかないのだ。ただ認めるのみ、当事者として過不足なく許され得る権利はそれのみなのか。
母親が、しきりに専門学校を勧めてくる。
わたしだって、専門職に就きたいとおもったことは多くあったし今でも少し憧れたりする。母にしたって、(私もなのだけれど、)一度大ゴケかました教育施設に再来をキメるのは如何せん不安が大きすぎる。
母にとっちゃ、賭けだ、デカい賭けだ。そりゃもうギャンブルよ。
いつだって親はギャンブラーだ。
だけど、これはわたしの人生であるという前提に置いて我儘を通させて頂きたのだが、それはなけなしのプライドなのだ。
大学を辞めるわけにはいかないのだ。
わたしは、一度選んだヤバい道でも、上手いことヌルッとすり抜けられると信じたいし、それこそ敬愛すべきあの地でニヤニヤしながらせめて、舞台を降りたいのだよ...
大学に意味があるんじゃない。
わたしが選んだ選択を、クリアできないことが、わたし""は””イヤってだけ
なんだって、満足いくようにしたいよな~~~~~!
皆さんの行く末にどうか灯り差すよう!
煙草と酒と読書そして音楽
煙草、愛すべき時間経過を取る小説が脳を打つとなると吸いたくなるし、敬愛すべき虚無的な音楽が耳を抜けると吸いたくなるし、幸福な時ほど吸いたくなるのだ。散歩していても吸いたくなる。苛立ちはしない。
時間の過ごし方は人それぞれなんだって、それだけのことをわざわざ声を荒げるほどの居力も気概も無いので、私はただボーッとしていたのですが、望まない禁煙を達成してしまったようです。嗚呼!悲しきかなこの虚弱な肉体!
わたしの言葉は、効力を何故か保持できないようなのです。これは諦めではなく、ただの事実として存在するのみなのであります。
大切なことほど、声を響かせれば響かせるほど、思考の至った折角の無形であっても、せっかくの、創造物も音を立てて崩れてゆくのだ。私にははっきりと聞こえるんだ。そしてそれを怖いと思う。子を殺されるように。
だから、私は主張を捨てた。真剣に話す行為を、さも無関係ですよみたいな顔をして。
言いたいことなんて、きっと半分も伝わるわけがないんだ。鱗片さえ、掴めない。ううん、掴ませやしない。わたしには言葉を放棄した意地があるのだとすれば、それは酷く面倒なことですね。
ただ、分かってくれる人は表情で、言葉の不自由さすらも汲んでくれるはずって、信じてるよ。それが愛でしょうが、ボケ。
そう、煙草。
一概に悪いというのは、はて賢くありませんかしらね。
音楽、書籍、映画、アルコール...嗜むというのは、本来聡明であるべきなのではないでしょうか。それらを喫煙と並行して嗜める人間が存在しているという事実を、害悪なのに、馬鹿ねで片づけるなんて、よっぽど賢くないわよ。ロックじゃねえな、は?
もう疲れた。
つまりおれは卒論で趣味を喫煙の相関性でも経済的視点に乗っ取って考えちゃったら面白いのではと思っただけなんですね、はあ!やりたい!
アイデンティティの喪失
アイデンティティとは果たして何であったのだろうか。考えろ、考えて、探し出せ...
結局、わたしという存在が一個人としてこの1年半に""成した""こととは...
わたしは1年と半年前から、酒を飲み煙草を吸い、幅広い図書と音楽に身を浸した。そして体重は10kg増え、10kg落ちた。単純なことだ。
自己の内面に飲まれ、打たれ、それを叩き返し生活を立て直すために、それらはわたしにとって必要であった。考えろ!自分の脳以外に信じられるものなんかあるもんか!さあ考えろ、それだけは辞めるな!問題は何だ、殺すべきは何だ!...ただ、もうそんなこと、しなくて良いのだ、肥大した精神の腫れはやがて落ち着くのを待つより他無いとしても、わたしには痛み止めが必要であり、抗生剤が必要であった。苦しかった。
""一人""になる時間の喪失、付与された人権...、実存をまざまざと見せつけられ、認知を迫られている...。ざわつき、死の剥奪...。幸せとは、権利とは何だったんだ?
いまここに確かに在るわたしとは(実家に帰ってからのことだね)、ひどく穏やかであり、そのような自分と意識との間に亀裂が入ったまま、誰も修復工事に取り掛かってくれないでいるし、それどころか家主のわたしが人に頼まないのであるのだから仕方があるまい。そして家主は修復の仕方なんて知ったこっちゃないのです。
溝は、深まるだろうか?そして意味とは、どうやって求めていくものなのであろう...
ああ、軟弱なわたしの身体は!たったの数日で害悪な煙を吸い込めない装置と化してしまった!いつの間に清浄化された!?持ち主の意志とは、全く意味を為さないのだね。
わたしは、アルコールや煙草を摂取しつつ音楽を聴いたり読書したりなんか出来る自分が、如何にも恰好良いような気がして、好きだったのです。
ただ、それだけに縋り続けていたかったのです。
夢に、好きな人が出て来ました。離れたくないと泣きじゃくるわたしの肩を抱いて、「どうしてぼくに執着するんだい?」と。
夢は自己への問いかけでしかないのです。自己の中でグルグルととぐろを巻き、稀に牙を剥くのみなのであります。
好きなものに想いを寄せ続け、変わらないでと願うのは、幸せではないのでしょうか?
メンタルヘルスとの決別
メンタルヘルスとの決別だ~!なんつって意気込んで、大学と一人暮らしとそして私だけの世界から強制退場させられて尚前向きな数日間を生きていたのですが、完全に虚無!
実家療養的な身になったわけで、ここで与えられたのは失ったはずの人権である...。
人生とは如何あるべきで、如何あればわたしは幸せなんでしょうねとか考え続けていたような気がして早数年、そうやったってどうしようもなくたって死にやしない仮定を取決めヘラヘラするならいつかきっとこうやって""療養""の身になるのが宜しかったのでしょうが、まあなんつって割り切れないってわけ...。
親はわたしに元気になって欲しいらしい。成る程。
割と実際こうやってたって楽観的な性分なのであるよ。だからこそまあホニャホニャと生き長らえつつ何やかんや笑ってるわけで、それはそのままでありたいよ。
取り敢えず何がモヤつくってこの健康的かつ健全性の高さに本能が順応するスピードに頑張ってもらうしかない訳で、ハア、アイデンティティとは何なのでしょうか。
ロックとは...
お昼ご飯の時間だ!
声明
♀に産み落とされた以上少女か女性かに成らざるを得ないのかしら
穢らわしい汚い汚い汚い汚ならしい醜い!
老いる一方なのよ、貴方たちは其れに疑問すら感じないの、幸せ?
私は少女で居たい。居なければならない。精神の純潔ってなあに、私は醜いものを見たかしら
少女性。
永遠、孤独其れを惜しまず、青く透明で、人を魅了する、自分自身を犯されては成らない、そんなこと誰にも。
少女ならこんな醜い声を出すだろうか、わたしの声は醜い。甲高い。女みたくて気色悪い。嫌いだ。
少女は食事をするだろうか、何故それを分かっていてわたしは食事を辞められないのかしら。気持ち悪い。そんなもの無ければいい。そうすれば透明に成れるんだ、儚く居られるんだ、分かっているのに、この醜い身体は、脳は、
脳は精神は犯されては成らない。純潔だと
少女は血の色を知っているだろうかそれを感じることすらあるでしょうか。私には信じられないのです、醜くおもえるのです。
抗うことは誰にもやめさせない、責められる人間何て居ない。
わたしは、わたしは
性に囚われない。気持ちが悪い。
愛情は殺意で構わないの、当然なの、だけど私はただ1人を守るわ。それしか脳がなくてもいいの。それならいいの。
私はわたしは
死んでもきっと自分を許せない、許さない。許さない。
ただ精神の純潔は誰にだって侵させやしない 出来っこない
死ぬ時に私はそれでも醜いのかな
7/7
愛されないなら死んだ方がマシだと書いた。
愛されたいのはたった一人私が愛している人だけで、だからこそ愛されないなら死んだ方がマシだとかほざいた次第なんですけど、そりゃ高望みだよねって感じする。分かってる。
人間はどうして結婚しているの。そして結婚することをさも当たり前かのように言うの。
こんなご時世だもの、結婚なんて~って皆様口を揃えて言いやがったりしますが人のこととなると結婚は当然って世論形成されるのはなぜなの。自分のこととなると、結婚しないと負けみたいになるのはなぜ。
好きだから結婚するんでしょ、知らんけど。
私はというと、一生同じ人間を愛する自信がある。
「そのくせ元カレとか言っちゃうんだね」やめて、それはそれ。
愛されなくとも愛し続けるって誓える、死んでも構わないって。(死ぬより、一緒に生きていきたいんだけど。)ただ”私があなたを愛しても構わない”って認めてくれれば十分なのに。
一度好きだと思った人間を嫌いになんてなれない。愛しているなんて、当然嫌いになんてなれない。
打ってたら熱が冷めてきたんで辞めます、何度もツイートしているし。
20歳とかいう年齢に、理想を抱いていました。子供でいられないと思っていました。自分は20歳に成れないのではないかなって本気で思っていました。それまでに消滅するのでは、って。そしてそれを私は今だって望んでいるけれど。
"10代らしい"時間を生きた覚えがないのです。
10代らしいってなんでしょうね。
他者とこんなことを真剣に話す機会もありませんので分からないのですけれど、自分が将来子育てをするなら、分かりやすく言葉で此方の気持ちを伝えること、感情の多様性を認めること、甘えるって状態を子どもが自然に行える状態を作ること、社会ではなく親になること...社会ではなく、親でいること、愛してる~って全力で伝えること。それをしたいのね。
それの逆を、私は教わってきた。私が親から与えてもらってた財産は、社会。
親には感謝しているし、もう、これで良かったのだと、ありがとうって素直に思えるようになれたのだけれど、だから私は人間のじゃれ合いみたいなものに不全を感じる。
実家にいた頃、産まれて1週間かどうかの子猫が納屋にいて 当然見殺しにも出来ず、育てた。今では元気に大きくなってくれて嬉しい限りなのだが、如何せん彼女は""甘噛み""を知らない。
甘噛みを知らなくて、知りたくて、親を憎んだりしたけれど、多々述べているうように、ADHDである可能性があるのだと分かってハッとした次第です。そこで初めて自分の、言いようのない、問題のないはずの家族への、どうしようもなく消化不良を起こし腐りかけた憎しみ、それに不快を覚えながらもそうでもしなければ保てない自身の不調和、ピースがパチパチはまっていった。
私の尊敬する両親は、間違っていなかった!私の尊敬したかった両親は、やっぱり尊敬すべき人間であったのだ!
機能が不全なのは、私だ。
過去、誰かに育て直して貰わなければ自分は生を頂くことも出来ないと思っていた。
20歳。成人式(綺麗なお洋服が着れるのでとても楽しみ!振袖は母に選んで貰ったの。彼女のセンスはとても好き。楽しみ)を控え、昨今の私事情ですが、無かった時間は、別の何かと入れ替わっているだけなのだ、と。ただ、幼少と"呼ぶべき"時間にそれをせず、他の何かを"した"のだと、それで良いんだって。
だから、私は、自分で、1人でだって、幼少を学べるんだって、
そう思わなきゃ、生きられない。
明日も、明後日も、来年も、
生きていたいね、見たいものが知りたいことが、まだまだあるもの。例え何も残せなくとも、生を受けた、享受するだけの時間を、許して欲しい。
さよならは、図々しくたって、したくないよ