自己美学、他者自己への美的投影

こんばんは!

みんな「(こんばんはー)...」(無言で液晶を眺める)

 

正解でしょ!

 

今晩は、ビールを飲む会と称された集まりを開いていました。(参加者全3名。)

にげぴは、ご周知かどうか、軽音楽部に所属して居ります。”部活”、です。大学在学、卒業生の皆さんにはこれが!!!これがどれだけハッピー☆キャンパスライフを破壊していくかっ!!!!...それはtwitter  (@nigeruuu)を、ご参照してね!

そうです、軽音楽部なのです。私の尊敬畏怖の対象であり、音楽オタクでもある部長さんもご同席でしたので、良き哉~!というような音楽を流して頂き、美味しいお酒、美味しい食べ物(堕落と呼ぶに相応しいたこ焼きでした。)に包まれ、我々は幸福だったのです。途中、もう1名の同期男子は家主のベッドを独占し眠りに落ちてゆきました、オヤスミ、そりゃまあ幸せに包まれているもんな。

というわけで、私は背後の寝具に無防備な男性を置き、己の欲望を抑える為暗くした自室でひとりPCの明かりに照らされているというわけです。

 

自己の持つ"人間の身体・精神への美学、無機物・形無きものへの美学"というのは、本当に人それぞれであるなあと、本日集まってくれた2人と話しているとよく気付かされる。いや、彼らが単純にそういった話が好きな人間である+交流頻度が高い、というのもあるのだろうけれど。他者否定が、彼らには無い。だが、確固たるものはあるの、だからこそ彼らを尊敬している。(いいですが、皆さん。明日センター試験の諸君の中に軽音楽部に入部したいなどと考えている人間がいた時のためにポジティブキャンペーンも兼ねたよ!えらい!!)

そもそも、個性なんてものは「すき!」って気持ちの寄せ集めだ。既に多くが生み出され、育ち成熟し、それを感受してしまった我々には、「サァ!誰も見たことが無いものを作って!自由に、絶対に人と同じになっては駄目だよ。」、これがなんという難題であろうか!! ...それなのに、これはあれに似てるね。真似だね。真似しないで。etc...みたいなのが私は不思議なのである。

嫌いなら真似しないでしょ、嬉しくない?あなたのそれもすきのごった煮でしょ?そのバンドだってあのバンドが好きこのバンドが、サウンドが好きって、あるでしょ?

まぁ、そんなことは小心者の私には面と向かって言える言葉では無いし、本題では無いので置いておきましょう~。

 

とりあえず今回は、人間の身体への美学追求ってわけで進めていきたいです。

高校生になるまでの私というものは、いやはや酷く愚かで浅はかであった。それはもう、ひどく。恋のお相手だって顔だけで選んでいた。(それで5年間も、それも高校が違っている間でさえ、いや、むしろ今だって愛しているのだけど。そんなにも長く顔だけで好きになったお相手さまを好きでいれたというのも、まぁそれはそれは良い話ではある。)他者に、自己内の美的イメージを投影して補完していたわけである。思えばこの頃の私は酷く太っていたし、ニキビもそれはもう本当に酷かったけれどそれすらも大した問題では無かった。自分を美の対象物にすら捉えていなかったわけだ。それなのに、あの子は可愛いあの子はブス、私の可愛いはね、とってもハードルが高いの!なぁんて、高らかにのたまっちゃうレベル。

嫌なデブスである、ただそれを否定は出来ないわけで。それはその時の私(後述デブスとしよう、)の美的投影の方向(→、←、↑、etc)が他者のみに向いていただけのことに過ぎないのだから。デブスは可愛い子が好きであった、美しい人が好きであった。それと同じように美術品も好きであったし、音楽も好きであった。すべてベクトルが同じであった。美しいと思うものに感嘆し、賞賛し、享受し反芻し、幸福を得る。うむ、美術評論家のようで聞こえがいい。よし、デブスは美術評論家だ。いいぞ。

高校生になり、デブスはそんな美しいものを心にコレクトしていた自分とコレクションの対比に気付く。劣等感、己の醜悪性。気付き、項垂れ、そこら中に吐瀉する。

それが、今現在の私へと繋がる。トリガーは引かれる。パァン!

コレクションを統計した私に下されたのは”痩身虚弱こそ、美である。”というもの。

パチン、と矢印の方向が反転し、自己へ向く。(いくらも思うのだが、私というものは本当に馬鹿野郎で、嗚呼もう、ひとつのことしかできないのだ。)

ただし、世界は残虐性を秘めている。時間は流れているのだ。

変わりたい!と思った瞬間に変われるのでは無く、思い続け努力した者にだけ祝福は与えられる。そして、我々は生物であった。基本的な生存防衛が備わっている。それは逃れようの無い呪縛であり、それ故に”非生物的である”ことに魅力を感じてしまった愚かな脳の我らは、プログラミングされた本能を歪めて叩くのであるが、殺せないのであった。

脳内戦争、自己内戦勃発です。since 16 old years.

 

先述の通り、私にはひとつのことしかできない。

このころから、恋愛対象となるお相手さまに容姿の社会的模範的優劣を問わなくなった。それはきっと、私が自己の容姿の醜悪性に苛まれることで、精神というものにやっと目を向けることができるようになった結果なのでは、と思われる。

人間なんて、骨と肉塊である。

例えば、私の愛する美しく、亡国の王子様のような様相であった彼は残虐であった。(ただ、私は彼を全てをもう、それはもう狂信的に愛して居ったのですが)彼の顔が、その肉体が変わらない保証など無いのだと、そして私があの頃好くことの出来なかった醜い容姿の彼らだって、、そういうことである。

 

デブスであった私は、強く惹かれた”痩身虚弱"を手に入れたわけだ。やったね。

他者の対応は、外見で圧倒的に変わるということに気付いた。恍惚と共に軽蔑と軽い嘔吐感を覚える。なんて!なんて愚かな!!それは、ただ、デブスであった頃の私の姿であった。

 

人間なぞ、骨とそれに纏わりついた肉塊に過ぎぬ。

成分など違わぬ。

お前らは皆、骨と血と脂肪とそれからなんだ、臓器と、筋肉と、それだけだ。それの、寸分の差と皮膚表面の装飾のひとつひとつをふんふんなるほど、などど訳知り顔で眺め評価しているだけだ!なんてこと!なんていう愚かしさよ!!

それなのに、その愚行を棚に上げやはり社会性の無い、思いやりの無い人間はなどとのたまうわけ。ははん。

 

ここで酷く混乱していたのは、理想を手に入れたのに認められない現実とのギャップに苦しむ私であったわけだが。

 

なんだ、えっと、人間の身体への美的追求。

でもやはり、美容整形、美容雑誌、そういったものがわちゃわちゃと混在する現代において、いや人間美を模したオブジェ等作られ始めた過去からずっと私たちは自らと他者の”目に見える”明確な判断基準である容姿に、相違に、あるものは苛まれあるものは優越し生きてきたのであろう。

容姿は、”目に見える”。心はどれだけ優しかろう綺麗かろうが見えぬ。

目に見え、そして触れられるものの安心感。それに、五感しか兼ね備えられなかった我々は追われて、きっとそれは死ぬまで。いいや、人間がいる限り。

 

 

とまあ、如何せん私の書く文章というものは長いうえに考えたことの終点を決めぬまま続くわけで、それはもう突進でしかない。

しかも何だかんだ書き始めから2日が経過したわけだ。

私はあの夜我が家ですやすやと寝息を立てていた美しい少年に心をかき乱されていたわけだが、何やかやあり、その晩もう一人美しい少年が増えた。

何だ、私の家、サイコーだな。

サイコーでも手は出さなかった。えらい、えらすぎるぞ。

 

美しいものはいつだって私たちの心を乱す。私たちは賛美する。

それで良いのだ。

 

身を亡ぼすではなく、肥やせば。

 

ちゃんちゃん。