夏果て/大森靖子


夏果て/大森靖子ちゃん

自己解釈です悪しからず。





"帰れないってわかってた
でもみんなの遊びじゃ退屈で"


子ども、確信犯で着いて行ってますね。 殺される、犯される… 兎も角'今までのままの私'では 帰れない。

靖子ちゃんの テーマで頻繁にある風俗感があると思った。 退屈。退屈で退屈で刺激が知りたくて、風俗堕ち。すぐ戻れるって思ってる、違う。抜け出せなくなるって分かってた。



"仄かなひかりで時々目覚め
照らされた身体がだらしなく
いちばんかわいいときの私は
どうやっていたんだっけな"


おっさんを見てるのかな… 逃げるつもりも(手段も)無い。 諦めてるから。自業自得だ、って

'可愛い時の私'。 みんなの遊びに退屈なんて覚えなくて、無邪気でキラキラ遊んでいられた頃。 子どもなのに子どもじゃ無い。ずっと子どもでは居られないから。  照らされた身体がだらしないのは、心が年老いた女の子も、身体が年老いたおっさんも同じ…



"夏バテ 夏の果て
だらしない幸せは
本物の子供が無邪気に壊すよ"


何もしなくても享受出来る日常。これからも浸かっていられた筈の日常。幸せ。 だらしない。

おっさんの無邪気な子ども心(欲しいから持って帰りたい、自分の物にしたい、(から、殺す。))、女の子の煌めき 刺激を欲してしまった心。

刺激、非日常。あのまま何もしなくても、日常は淡々と続いた筈なのにね。


"私は何も思い出さずに
目の前の恋をする"


つらくなる… おっさんを求めてるのね。非日常。

風俗、非日常、刺激、堕落、分かる、分かりたく無い、普通で居たかった、普通じゃつまらなかった。 思い出さない。



"殺されるときに流れてた音楽
時は止まらずに連々と
さいごの言葉 さいごのごはん
噛みしめる暇はない"


音楽、ごはん。

ごはんって単語、すごく幼児性がある。なのに音楽を気にしてる。殺されること分かってる。でも、分かってたから。分かってた。

これは望んだ幸せなの、って



"夏バテ 夏の果て
くたびれた夏のはしっこを
君の匂いにむせて
ついにほどいた"


殺しましたね。 夏果てました。

キラキラした夏は、もう終わり。おっさんの無邪気な欲望も、女の子の非日常への憧れも、夏が終わったの。もう、おしまい。



"殺した時のさいごの柔らかさ
俺は絶対に悪くない
正しい息をしたかっただけ
君もきっと同じだろ"


俺は'絶対に'悪くない。→幼児性。

正しい息をしたかった'だけ' おっさんも女の子がこれを望んでたって信じてる。そう、違わない。分かってたから。

正しい息。 したいことをするの。間違ってるもんか。知るか。 生きたいように生きるの。誰にも邪魔させない。

風俗堕ち、さっきから推してる視点。 アンダーグラウンドの世界も、分かってるんだよね…。 望んで来たんだろって、 絶対に嫌なら、そんな

ことするわけないって。

「違う!こんなことしたく無かった!仕方なかったのよ…」っていくら泣いても無駄よ。 分かっているんだから、認めた方が楽なの。

あなたの見たかった世界が見れたね、って。うんって言えばいい。

したいように、生きるの。



"一年振りの夏なのに
君の裸を眺める夢をみて
冷凍庫に転がる頭にKissして
涼しい昼下がり"




終わります!



回想

こんにちは。

感情が無いです。

 

これは回想である。

私は感銘を受けた。衝撃を受けた。感動した。間違ってなかった!生きている!後を追いたいと思った。私はひどく感化され、腐食された。

 

ただ、何を書こうと思ったのか本筋を失念したので、好きなようにさせてもらおう。

 

私は今でこそ自我をいうものを完全に確実に正確にぽっかりと喪失させてしまったのであるが、それこそ小学生の時期の自分は、酷く自我の強い、有り触れて汎用的な子どもだった。この時期に自我を使い切ったのかも知れない。

そして、”金魚の糞”であった。スクールカースト上位者で、権力者だった。あと、モテた。小学二年生の春に、初めて学級委員長が選出される。斯くして私はクラス投票で学級委員長になった。やったね!真面目である私はここで縁取られた。

あまり覚えていないけれど、小3で母親が契約社員になるまで、私はすぐ早退するガキだったし保健室の常連であった。本質的なサボり癖が見て取れる。日中小学校まで迎えに来てくれず、帰宅しては愚痴ばかりの母親を見てから、早退は愚か休むことすらしなくなった。しっかりせねばと思ったのだろう、多分。

小4で女子っぽいじめじめとしたいじめにあった。ただ、自我が強く自分大好きマンだった私は真正面からぶつかり、何でよ何でよとキレた。そりゃウザいわ。その冬、最後の席替えは先生の好意で自由に組めることになった。死ね...。予感的中。私はボッチだった。その頃、私はカースト頂点のNちゃんが大好きだった。Nちゃんは集団登校の班が同じで、同じお稽古もしていた。割と仲良しであって、Nちゃんグループに虐められちゃっていた、(笑)。それでもNちゃんラブだった。重い。

教室の真ん中で、女子に囲まれて、ワンワン泣きながら、陶酔に浸っていたのを覚えている。注目される!可哀想な私を見てよ!といったところだろう。クソポジティブだ、どこまで前向きなんだ!席替えの結果なんて今はどうだっていい。

 

それから中学1年生になった私は、再びNちゃんにじめじめとしたいじめを受け、早々と憔悴し、メンヘラ完成。Nちゃんとは、5年生~それまで、再び仲良しだったよ。

まず手始めに、つらくなるとひたすら腕に爪を立てて皮膚を剥いだ。日記帳に死ねブス地獄に落ちろと書き殴り泣いた。親には楽しそうに振る舞った。

中2で、I君に落ちた。I君は超イケメンだった、だから好きだった。あと、担任に周りから見ても分かるくらい、女々しいじめじめといたいじめを受けた。でもそのクソ女が転任になるとき、悲しくて泣きながらさよならした。あと、I君が愛しすぎてリストカットタイプのメンヘラへと進化を遂げていた。途中で女の子を熱烈に好きになった、どうやらつらくなると女の子へ愛が傾く傾向にある。

進路は、いい子振りたかったし面倒だったので商業高校に推薦で入った。

 

高校はごく平凡だったし、相変わらず死ねブスと書き綴り泣きリストをカットして過ごしていた。あと、スクールカースト下位であった。Popteenに出会い、椎名ひかりが痩せたので私も痩せたらいつの間にか拒食症になっていて気づいたら過食嘔吐ばかりしていたっぽい、日記的に。家族は誰も気づかなかった。高2でギャル集団に属そうとしたが、屈し、女々しいじめじめといたハブり行為に遭遇を果たす。つらい...。武装の為には、痩せてギャルにチヤホヤされるしかないので摂食障害が悪化し、34kgという名誉を液晶に刻んだ。進路はこれまたいい子ぶりたいし実家から離れたかったので県外の国立高校に推薦を受け、通った。

 

そして今、私は引きこもりであり、睡眠障害であり、自我と感情と、単位が無い。

ただしかし、神様のように尊敬できる人間が出来たわけだ。

嗚呼!大好きです!あなたを追いたい!同化したい!

そして大学への関心の一切を無くしてしまった。

 

疲れたので、私は部屋の掃除をしようと思う。

また、文章を書けるうちにもうちょっと概念的なことも書きたいな~。

さてだから何だと思うのだけれど私自身はこれを書くことで一時発生的な懐古を様々できたので良しとしよう。

 

それでは、

ニャス!

中学生の頃から考えていただけのこと

こんにちは。

此方、at 岡山市。大雪です。

雪ってすごいね!めっちゃくちゃ楽しいね!うつ病なのにね!!!

 

もう何年振りだろうかな~、小学3年生以来かな?積もった雪を見ました!うそ!

嘘だった...

高校2年生のときも、一応薄っすら積もったなぁ。

あの時は「絶対、次に雪が積もった日、この純白の中で血を撒いて死んでやる...」と強く思ったものです。懐かしい。そして、次に雪が積もった日である本日、私はと言いますと、雪だるまなど一人で、深夜2時に、運動公園で、作ってみたり雪の上を飛び跳ねてみたりなどしているわけです。人生だ。

 

閑話休題

今回は、全くもって終着点の無いブログだよ!金原ひとみ的にいうと、錯文だよ!

 

中学生の頃、通学路をとぼとぼ歩きながら考えていた。(ここからは私の単独思考なので、なんというか、譲歩してね!)

意識(なんていうのかなあ、個々の脳?認知世界?)って、人の数ほどあるとすれば、世界も同数あるってことかな。そもそも私の意識は”私の”なのか、あの子と共同利用じゃない保証無くない?ていうか、私は”私の”意識しか認知出来ないけれど他の人はどうなんだ?私の考えは分かるのか?それどころか、私が見ていない間、みんなは何をしている?私の”世界”に、視界に入らない存在は”居ない”。でも、”居る”。私がそっぽを向く、背後に、さっきまで視覚的に捉えていた彼女は、”居る”?私は、行動を命令されていないけれど(たぶんね)、他の人は?みんなシナリオがあるんじゃないの?人生まるごとドッキリってわけ?そもそも、私たちはお人形なのでは?お人形だって意識があるかもしれないし、私が右手を動かしているのに知らんぷりして見えないふりして自己的に動いていると思っているかもしれなくない?それと同じように。

全くもって頭が悪いし、考えていると疲れるので大体途中で辞めていた。

今はじめて文章に起こした訳で、何かふむなるほどこれは...となるかと思ったけれど、何にもならなかった。どう思った?

 

そもそもこういう全く答えがないことを、考えるのが私は好きなだけなのだ。

 

雪が、まだ降っている。すごい。

私はなぜそのようにファンシーでキャッチーでポップな雪コンテンツを投げ打ってまで、自室にこもり錯文を書いているのかというと、雪だるまを作ったの。さっき。それを写真に撮ろうと思った瞬間、iPhoneの電源が落ちてしまったわけで...。悲しい。

今ね、充電中。そろそろ70パーセントになるから、もう一度遊んでくるね!うつ病だけど!!

 

よい夢を!

 

自己美学、他者自己への美的投影

こんばんは!

みんな「(こんばんはー)...」(無言で液晶を眺める)

 

正解でしょ!

 

今晩は、ビールを飲む会と称された集まりを開いていました。(参加者全3名。)

にげぴは、ご周知かどうか、軽音楽部に所属して居ります。”部活”、です。大学在学、卒業生の皆さんにはこれが!!!これがどれだけハッピー☆キャンパスライフを破壊していくかっ!!!!...それはtwitter  (@nigeruuu)を、ご参照してね!

そうです、軽音楽部なのです。私の尊敬畏怖の対象であり、音楽オタクでもある部長さんもご同席でしたので、良き哉~!というような音楽を流して頂き、美味しいお酒、美味しい食べ物(堕落と呼ぶに相応しいたこ焼きでした。)に包まれ、我々は幸福だったのです。途中、もう1名の同期男子は家主のベッドを独占し眠りに落ちてゆきました、オヤスミ、そりゃまあ幸せに包まれているもんな。

というわけで、私は背後の寝具に無防備な男性を置き、己の欲望を抑える為暗くした自室でひとりPCの明かりに照らされているというわけです。

 

自己の持つ"人間の身体・精神への美学、無機物・形無きものへの美学"というのは、本当に人それぞれであるなあと、本日集まってくれた2人と話しているとよく気付かされる。いや、彼らが単純にそういった話が好きな人間である+交流頻度が高い、というのもあるのだろうけれど。他者否定が、彼らには無い。だが、確固たるものはあるの、だからこそ彼らを尊敬している。(いいですが、皆さん。明日センター試験の諸君の中に軽音楽部に入部したいなどと考えている人間がいた時のためにポジティブキャンペーンも兼ねたよ!えらい!!)

そもそも、個性なんてものは「すき!」って気持ちの寄せ集めだ。既に多くが生み出され、育ち成熟し、それを感受してしまった我々には、「サァ!誰も見たことが無いものを作って!自由に、絶対に人と同じになっては駄目だよ。」、これがなんという難題であろうか!! ...それなのに、これはあれに似てるね。真似だね。真似しないで。etc...みたいなのが私は不思議なのである。

嫌いなら真似しないでしょ、嬉しくない?あなたのそれもすきのごった煮でしょ?そのバンドだってあのバンドが好きこのバンドが、サウンドが好きって、あるでしょ?

まぁ、そんなことは小心者の私には面と向かって言える言葉では無いし、本題では無いので置いておきましょう~。

 

とりあえず今回は、人間の身体への美学追求ってわけで進めていきたいです。

高校生になるまでの私というものは、いやはや酷く愚かで浅はかであった。それはもう、ひどく。恋のお相手だって顔だけで選んでいた。(それで5年間も、それも高校が違っている間でさえ、いや、むしろ今だって愛しているのだけど。そんなにも長く顔だけで好きになったお相手さまを好きでいれたというのも、まぁそれはそれは良い話ではある。)他者に、自己内の美的イメージを投影して補完していたわけである。思えばこの頃の私は酷く太っていたし、ニキビもそれはもう本当に酷かったけれどそれすらも大した問題では無かった。自分を美の対象物にすら捉えていなかったわけだ。それなのに、あの子は可愛いあの子はブス、私の可愛いはね、とってもハードルが高いの!なぁんて、高らかにのたまっちゃうレベル。

嫌なデブスである、ただそれを否定は出来ないわけで。それはその時の私(後述デブスとしよう、)の美的投影の方向(→、←、↑、etc)が他者のみに向いていただけのことに過ぎないのだから。デブスは可愛い子が好きであった、美しい人が好きであった。それと同じように美術品も好きであったし、音楽も好きであった。すべてベクトルが同じであった。美しいと思うものに感嘆し、賞賛し、享受し反芻し、幸福を得る。うむ、美術評論家のようで聞こえがいい。よし、デブスは美術評論家だ。いいぞ。

高校生になり、デブスはそんな美しいものを心にコレクトしていた自分とコレクションの対比に気付く。劣等感、己の醜悪性。気付き、項垂れ、そこら中に吐瀉する。

それが、今現在の私へと繋がる。トリガーは引かれる。パァン!

コレクションを統計した私に下されたのは”痩身虚弱こそ、美である。”というもの。

パチン、と矢印の方向が反転し、自己へ向く。(いくらも思うのだが、私というものは本当に馬鹿野郎で、嗚呼もう、ひとつのことしかできないのだ。)

ただし、世界は残虐性を秘めている。時間は流れているのだ。

変わりたい!と思った瞬間に変われるのでは無く、思い続け努力した者にだけ祝福は与えられる。そして、我々は生物であった。基本的な生存防衛が備わっている。それは逃れようの無い呪縛であり、それ故に”非生物的である”ことに魅力を感じてしまった愚かな脳の我らは、プログラミングされた本能を歪めて叩くのであるが、殺せないのであった。

脳内戦争、自己内戦勃発です。since 16 old years.

 

先述の通り、私にはひとつのことしかできない。

このころから、恋愛対象となるお相手さまに容姿の社会的模範的優劣を問わなくなった。それはきっと、私が自己の容姿の醜悪性に苛まれることで、精神というものにやっと目を向けることができるようになった結果なのでは、と思われる。

人間なんて、骨と肉塊である。

例えば、私の愛する美しく、亡国の王子様のような様相であった彼は残虐であった。(ただ、私は彼を全てをもう、それはもう狂信的に愛して居ったのですが)彼の顔が、その肉体が変わらない保証など無いのだと、そして私があの頃好くことの出来なかった醜い容姿の彼らだって、、そういうことである。

 

デブスであった私は、強く惹かれた”痩身虚弱"を手に入れたわけだ。やったね。

他者の対応は、外見で圧倒的に変わるということに気付いた。恍惚と共に軽蔑と軽い嘔吐感を覚える。なんて!なんて愚かな!!それは、ただ、デブスであった頃の私の姿であった。

 

人間なぞ、骨とそれに纏わりついた肉塊に過ぎぬ。

成分など違わぬ。

お前らは皆、骨と血と脂肪とそれからなんだ、臓器と、筋肉と、それだけだ。それの、寸分の差と皮膚表面の装飾のひとつひとつをふんふんなるほど、などど訳知り顔で眺め評価しているだけだ!なんてこと!なんていう愚かしさよ!!

それなのに、その愚行を棚に上げやはり社会性の無い、思いやりの無い人間はなどとのたまうわけ。ははん。

 

ここで酷く混乱していたのは、理想を手に入れたのに認められない現実とのギャップに苦しむ私であったわけだが。

 

なんだ、えっと、人間の身体への美的追求。

でもやはり、美容整形、美容雑誌、そういったものがわちゃわちゃと混在する現代において、いや人間美を模したオブジェ等作られ始めた過去からずっと私たちは自らと他者の”目に見える”明確な判断基準である容姿に、相違に、あるものは苛まれあるものは優越し生きてきたのであろう。

容姿は、”目に見える”。心はどれだけ優しかろう綺麗かろうが見えぬ。

目に見え、そして触れられるものの安心感。それに、五感しか兼ね備えられなかった我々は追われて、きっとそれは死ぬまで。いいや、人間がいる限り。

 

 

とまあ、如何せん私の書く文章というものは長いうえに考えたことの終点を決めぬまま続くわけで、それはもう突進でしかない。

しかも何だかんだ書き始めから2日が経過したわけだ。

私はあの夜我が家ですやすやと寝息を立てていた美しい少年に心をかき乱されていたわけだが、何やかやあり、その晩もう一人美しい少年が増えた。

何だ、私の家、サイコーだな。

サイコーでも手は出さなかった。えらい、えらすぎるぞ。

 

美しいものはいつだって私たちの心を乱す。私たちは賛美する。

それで良いのだ。

 

身を亡ぼすではなく、肥やせば。

 

ちゃんちゃん。

 

 

少女で”在る”こと

よし、

逃げ照ちゃん名義初ブログであるよ、パチパチ~。

などとだね、フラフラと書いているとツイートの様に、ask.fmの様に、ながーっとまぁこのような要らないタイピングを辞めるのだ。

 

では、えぇ、少女性。

私自身、少女であるということを強く意識し始めたのはいつ?、と思い返すと、まずポンと浮かび上がる(飛び上がる、水上に突如出てくる。)のは、やはり高校1年生の冬、16歳であるかな?んん?、です。

何時ぞやからウーウーと唸りつつ懐古する必要も無しにツイートを繰り返しているから、もういいと言われるかもなのですがまぁ聞いてくれ、私の摂食障害発動が16歳の11月です。ここで、人形に強く憧れ、同時に少女で在り続けることを意識しました。

 

まず、少女とは何か?

女性ではない、女個体のことか、精神か。私が書きたいのは両方です。正直、生き物、固体として少女で在り続けようとするなんておかしいよね。そんなのは、プログラムされていないのだ、そもそも論。

小学生そこそこに至った女の子達には、初潮が来る。来んなっつっても来る。来るもんは来る。”普通に”していれば。しかも毎月来る、何十年も。全く、素晴らしく真面目だ。

まずこの時点で、(私は思うのです。)女の子は否応なしに少女になる。それまでは少女では無い何かです、女の子。私たち、私の言う”少女”とは、生き物として科せられた生殖義務をまじまじと見せつけられ押し付けられ、(頼んでもいないのに!)自らの女性性を意識させられるような状態に陥ることになってしまった、思春期の少女のことです。

少女は、ここで決断を迫られる。少女は自らの身の振り方を選べるようになりますね。だから、そう、生理を受け入れ時々苛々しちゃっても、享受し、女性になることを肯定する道。嫌悪を抱き、離れようとする道。後者を選んだ女の子たちが、不調和で歪で美しい”少女性”を求める。

ついでに言っちゃうと、処女であることと少女性を湛えることは、無関係であるよと私は主張します。それだって、初潮と同じと思うわけで…。分岐点であると。セックスとは、フツウ、生殖だ。子孫。産み、育て、後自らが死んでも安心ねっていう生命存続の~、、、ってやつ。それを少女であることを頑なに守りたい女の子がやってしまうこともあるわけです。ヤッてしまうわけで…。何故かって、人間であるから。それは、少女も女性もきっと大して変わらないのだろうけれどね、愛を求めているってわけ。そして、少女最大のカワイさ、好奇心。

 

少女で居る為に成すことっていうのは、後回しにしちゃって。性を拒んでしまった少女の二極化について、私が考えをまとめたいために文字を打ちますね、ポチポチ。

処女の少女は、そりゃあまあ、普通。性を拒むんだから、性行為なんて気持ち悪いに決まっている。なんら問題ないです。(あれかな?今更だけどさ、処女と少女って、所謂言葉遊びなのかな?)…次の方、どうぞ。

非処女の少女さんです。何故、女性性を拒んだにも関わらず、セックスえーいもう性行為!性行為は、性交渉なのに平気なの?って、したい。ハ~、自問自答だ。

そんなね!少女性が~って、文章を書くのはどうしてかっていうとこんなことを根掘り葉掘りお話する相手が居ないからです。だから、何度も煩いけれども、これはこの文章全体が逃げ照ちゃんのヒトリヨガリでしかない。無礼を許して。

デリケートもデリケートすぎるところを突っ突いてほじくっているわけなので、私の好奇心はモグラを探しているだけなのだけれどきっとその過程で木の根っこを傷付けたり、ミミズさんなんかを知らぬ間にスコップで真っ二つしちゃってるかもしれませんってこと。でも、少女でも女性でもメンズでも聞いて欲しいの。

少女であることに固執してしまった私がなぜ非処女であるかといわれますと、全くおセックスに性を感じていないからってだけなのではないでしょうか。もっと考えろと申されましても。だって、今さっきよ、性行為って打って少し気分を悪くしましたわよ。うえっ。多分、もう、少女なので人肌恋しい×好奇心のダブルパンチ、(そこに、後々大切になる精神的なか弱さを武装させるの、愛されたい必要とされたいって気持ち。)それが引き金なんじゃないの。

女性になる、もう絶対的に逃れようのない事実として身体に宿られる危険を犯してまで、それが少女にとって必要となることもあるんだよ。いやはや厄介である。

難解であるので、隅っこへ置いておきましょう。よっこいしょ。少女でもこれくらい言うよ…。うう…。

 

さて、少女で居るために女の子が取る手段。もう、ここいらはパカッと分離する。フツーにしていては女性になってしまうプログラミングをされている女の子は、フツーを捨てますね。そりゃそうだ。例えばAちゃんは、拒食症になる。少女性の強い細く華奢でしなやかな四肢に強い羨望を抱き、熱望する、結果として生理すら止まる。これが至高と思います。割合、高いと思います、摂食障害の女の子の少女信仰率。逆も然り。例えばBちゃんは、ただ拒む、でも身体はどんどんと女性性を増す、抗えない。性嫌悪する。同性愛者の女の子にも多いんじゃないでしょうか、少女は。

うーん、ンン、分かりやすく表へ出る症状はそれくらいしかパパッと出てきません。貧弱な思考ですこと!はぁ。

アイス食ーべよっとぉ。

 

一般的にごくフツウに育ち女性性を受け止めていける人間が多いということも、よくよく思い直せば私たちは確認など取ったことが無いのではないか!そうですね?そう!

社会を見れば分かるのだけれど。成長した女の人は女性と呼ばれますね、自然にね。そして生理日予測アプリなんてものが爆発的にヒットする、今はホットスナックの話はやめようね。女性ホルモンがなんだ、乳がなんだ、フェロモンがあーだこーだ言われるわけです。人気。つまり、大多数のお姉さま方は女性性をぶつけられた痛みすらもう覚えていないのでは…ってこと。(?)

それなのにいやはやどうして私も諸君も、この様に歪ゆえに美しい魂の元へ生まれ落ちたかね!

 

少女の始まりは初潮開始同時であり、終わりは...閉経時同時である(と、私は定義したい。その上、その後がどうこうはまた別のお話ですなどと言い逃れたい。)。少女はセックス云々でまたも選択を迫られる。成る程。

 

はあ!結局何も上手く話を運べないじゃないか!…当然っちゃ、当然です。だって、終着点なんてはなから定まっていないもの。文章に起こしたかったのです、コホン。飽きれないで~!

 

さぁ、とりあえず終わりを組もう。何か思うことがあれば、コソコソと継ぎ接ぎしていけばいい。だって、これは、私の文章なのだからね。

ニコニコ。

 

我々、いや少なくとも私個人である少女にとって、そう”在る”ということとは、つまり、言葉や思考での説明を排除した...っていうか説明の付かない感情としての、簡潔的最大の自己と生への嫌悪である。自己愛では無く、一般広義として自分を愛し、人間で在ることを愛して健やかさを胸に生きてゆける者はまず少女で居たいなどの深みにズッポリしないであろう。OK?、続けちゃお。んで、自己が嫌いなのである、だからつまり少女で在りたい私は。大人になる時間と感情の柔軟な成長が追い付かなかった、ってわけ。それは早熟であるとか、幼いとかどちらでも良いし、私は女性で在る人間から、生き急いでいるとのご評価を戴いて生きてきた。大変ご名誉でご迷惑なことである。自己が嫌いなのだから自己の生を納得しろというのも大分傲慢ですね、だって嫌いなのだから。嫌いとはすべてを破壊する言葉ですね、恐ろしい!生きることに反旗を覆そうという人間がそもそも生殖をしますかというとこれもまた本能に背いて御免なさいどうやら私のプログラム欠陥が無いですかといった感じで本当にごめんねっていうのはあるが、繁殖するわけが無い。だって、やだもん。そこで、覆そうにも覆す反旗を持たない私という不良品疑惑人間ちゃんは、精一杯の力で少女に留まろうとする。やぁ、でも、少女、だってコドモなんです。責任はオトナが取ってくれるでしょう?なんて、ワガママもあったかな。(ワガママだからこそ、責任を度外視した”not 性行為"としてのセックスも行われるのであるか?)

全く、調子の良いことであるよ。

 

ふむ、全く何もかもうまいこと言えていないではないか。ただ、私は疲れましたし先ほどアイスを食べてから美味しかったのだけれどお腹が痛むのよ。さぁ、これより良い結果がわかりませんので、失敬失敬。